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ゆかりの宿

~ 歴史あるこの地。ドラマチックな歴史と文化をご紹介します。 ~

●吉田松陰ご遊歴の地【吉田松陰遊歴記念碑】

この記念碑が建立されたのは、昭和34年の春です。松陰が「安政の大獄」に連座し、30歳の若さで命を散らしたのは有名ですが、その原因となった壌夷への言動や反幕府的な言動の思想は、水戸学が大きな影響を与えていました。 松陰はその思想形成の為、積極的に諸国を歴訪して、多くの人々に接しその長所を摂取しました。その一端として嘉永4年(1851)12月東北遊歴に旅立ちました。筑波・笠間を経て19日には水戸に入り、太田・鹿嶋にも足を延ばし、水戸領内で越年。正月21日に高萩の阿久津氏宅、翌22日には磯原の野口氏宅に一泊、大津・勿来を回って北上して行きました。記念碑には、野口氏宅で見た夢の詩文が刻まれていますが、大津浜の英国人上陸事件が強い影響を及ぼして「大艦隊の襲来」に対抗する心意気が明確に示されています。題額は、岸信介の書です。

●雨情が愛した地【野口雨情生家】

童謡詩人で大正から昭和前期に活躍した、野口雨情(英吉)の生誕の地です。野口家は楠正成の弟、楠正季の子孫で元亀元年(1570)から当地に移り住み、その後水戸藩の郷士となりました。水戸藩にとって、当地は北辺に当たるため、藩主もよく訪れ。特に義公は野口家からの眺望を愛して「観海亭」の称号を与えたといわれ、当家には、六代水戸藩主治保の書を、雨情の曽祖父である野口北水が彫った、同名の額が残されています。 野口家は、水戸藩を代表して長州の桂小五郎と「成破の盟」を結んだ、幕末の志士西丸帯刀(亮)。雨情の父野口北涯(量平)も、北中郷村の村長を勤め、当地を代表する廻船問屋を営んでいました。それだけに、当家のたたづまいは豪壮であり、地元では「磯原御殿」と呼んでいました。しかし、この家も度々の火災、さらには常磐線の建設によって分断され、今はその一部を残すのみですが。雨情が起居し詩作した、廊下をめぐらした二階の部屋は、大正・昭和前期のおもかげを強く残し。家紋の菊水をつけた門と共に、どっしりとした落着さを見せています。

●野口雨情 童謡・民謡詩人としての活躍

大正4年(1915)現いわき市常磐湯本町の柏屋に移り、詩作活動を続けます。同7年水戸へ出て「茨城少年」の編集にあたりながら童謡作品を発表し、同8年、西条八十等の紹介もあり中央の児童雑誌に童謡作品の発表を開始します。 また自由詩集「都会と田園」の刊行により詩壇復帰をはたします。著名な「船頭小唄」(原名枯れすすき)を作詞し、中山晋平に作曲を依頼したのもこの頃です。同10年には「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」などの作品を発表し、同11年から「コドモノクニ」にも作品を発表します。「雨ふりお月さん」「あの町この町」「兎のダンス」等は、この雑誌に掲載されました。作曲家の本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の試作に最適の曲譜を付けました。昭和20年(1945)1月27日、63才で永眠。

●徳川斉昭(烈公)が褒めた景観【徳川斉昭(烈公)歌碑】

昭和33年に建立されたものですが、天保4年(1833)8月24日に領内巡視のため、郷士野口友二郎(雨情の曾祖父)家に立ら寄つた時に、藩主斉昭が磯原を誉めて詠んだ歌です。「四のとき 咲きて変わらぬ波の華 ながめ徒せぬ 磯原の里」とありますが、「四のとき」とは四季とか何時でもを表しています。磯原の海の幸、特に海上交通の便を誉め、観海亭(磯原御殿と呼ばれた野口家の邸宅を、領内巡視毎に立ち寄った徳川光圀が命名した)からの景観を誉めたものです。 雨情は、この様に自分の祖先と藩主が深い関係にあったことに誇りを持つていました。その証拠の一つに、この斉昭の歌を自筆の掛け軸にしましたが、そこには「源烈公詠歌 野口雨情敬書」の文字があります。

●壮大な日の出を詠んだ【旧磯原港の雨情歌碑】

雨情の詩・歌碑は全国に約四百基あるといわれますが、北茨城市内にも多数有ります。この詩碑は昭和30年に建立されたもので、市内では磯原駅西口にある詩碑(船頭小唄・旅人の歌)に次いで大きなものです。「遠く朝日は 海よりのぼり 千里奥山 夜があける」とありますが、壮大な太平洋の日の出を詠んでいます。

●廻船業を中心に発展【旧磯原港跡】

文録4年(1595)の岩城領小物成目録に、平潟に10艘・大津に6艘・磯原に5艘の猟船(漁船)有りとの記録があります。 それが宝暦13年 (1763)になると大津63艘・磯原20艘となり、更に磯原に廻船6艘と有ります。大津は漁業を中心に、磯原は廻船業を中心に発展したことが分ります。大津は現在でも立派な漁港です。磯原は平成の初期まで、船曳場が残されていましたが、護岸堤が出来てしまいました。現在では船曳場のコンクリート底のほんの一部が護岸堤の底部に見え、護岸堤に茨城県が埋め込んだ、漁業基点のレリーフが残されているのみです。

●水戸光圀が安置した天妃神【天妃山】

磯原小唄で野口雨情は『天妃山から東を見れば、見えはしないが見えたなら、あれはアメリカ合衆国』と詠つています。昭和51年5月に北茨城市を行幸された昭和天皇は、茜平青少年の家の郷土室から展望を楽しまれた時に、『この海岸の真東はアメリカだね』とお言葉をかけられたそうです。
 実際、天妃山にある神社拝殿前の展望台から太平洋を眺めると、その雄大な景観は、その雨情の気持ちを偲ことが出来ます。 「松岡地理誌」によれば、この天妃山は『古ハ此山二薬師十二神ヲ安置セシ』とあり、古くから信仰の地でした。此の地が天妃山と呼ばれる様になったのは、元禄3年(1690)7月に水戸第二代藩主光圀が、海上交通の船を守目的で、天妃神を安置してからのことです。
 天妃神は、宋代の福建省で信仰された女神で、元の時代に天妃と呼ばれる様になり、明から清の時代に海難救助の神として多くの船乗りの信仰を集めた中国の神様です。 それだけに、ここには天妃神を祭るだけでなく、常夜灯を設置し、山頂を「旗の峯」と名付けて大旗を立て、篝火を燃すなどして灯台の役割をも持たせたので、近在の船乗りだけでなく、遠くは南部や仙台、筑前や浦河の船乗りからも厚い信仰が寄せられました。 しかし、これだけ信仰を集めた天妃社も、天保14年(1843)の水戸藩による寺社改革で、異国の神を廃止するなどの理由で、天妃神の代わりに、弟橘媛命を祭神とする笠原明神を置くことになりました。 天妃社廃止の後、不漁や変事が続いたこともあって、地元の人々は寺社奉行に何度も天妃神の復活を嘆願しましたがかなえられず、現在に至つています。封建時代は、殿様の意向が全てであったのですが、地元では今でもこの地を天妃山と呼んで親しんでいます。

SANKAIKAN

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